反対派のプロパガンダで煽られる世論  憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認をめぐって、国会で目下、論戦が繰り広げられています。  集団的自衛権の問題が政治日程化して以降、これに反対するメディアや識者からの批判は鳴り

5/31 集団的自衛権の行使容認は立憲主義に反する?

反対派のプロパガンダで煽られる世論

 憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認をめぐって、国会で目下、論戦が繰り広げられています。

 集団的自衛権の問題が政治日程化して以降、これに反対するメディアや識者からの批判は鳴り止まず、その影響を受けてか、行使容認への反対が賛成を上回るという世論調査の結果が各紙で報道されています(但し、産経新聞は、賛成が反対を上回る結果を報道)。

 反対派からは、しばしば「政府による憲法解釈の変更は立憲主義に反する」という主張がなされています。安倍晋三政権が適正な手続きを経ずに憲法の趣旨を大きく変えようとしているというのです。

 立憲主義とは、国家権力を憲法によって拘束することで、政府の恣意的な権力行使を防ぎ、もって国民の自由や権利が政府によって侵害されないようにしようという考え方です。

 では、政府による憲法解釈の変更はその立憲主義に反しているのでしょうか。

 実のところは、そのような批判はまったく当たっておらず、反対派のプロパガンダに過ぎません。

 

政府の憲法解釈変更は憲法上何の問題もない

 これまで憲法9条の政府解釈を担ってきたのは内閣法制局です。「我が国は国際法上、集団的自衛権を保有しているが、憲法上その行使を許されない」という憲法解釈は戦後、同局が中心になって作り上げたものです。

 内閣法制局はその名が示す通り、内閣に属する一行政機関です。憲法72条では「内閣総理大臣は、(中略)行政各部を指揮監督する」と規定されており、首相には同局の業務について指揮監督する憲法上の権限があります。

 したがって、首相は政府の憲法解釈についても内閣法制局の仕事を指揮監督し、不都合があればその変更を指示することは立憲主義に反するどころか、憲法上何ら問題ない、当たり前のことです。

 もちろん、時の政権が国会の発議や国民投票を通さず勝手に憲法そのものを変更したら(まず、あり得ないことですが)、それは改憲手続きを定めた96条違反ですし、立憲主義に反します。

 しかし、今回問題になっているのは内閣法制局による憲法9条の「解釈」です。

 その解釈は、首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が、今月15日に提出した報告書も指摘している通り、憲法制定時から既に大きく変更されてきたという事実があります。

 1946年6月、吉田茂首相は新憲法制定時の帝国議会答弁で、9条は「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したもの」と述べ、自衛権の発動は許されないとの解釈を示しました。

 ところが、自衛隊創設後の1954年12月、大村清一防衛庁長官は、「憲法は戦争は放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない」と衆議院予算委員会で発言し、自衛権の発動を容認しています。

 解釈を変えることが即、立憲主義に反するというなら、既に1954年からこのかた60年、立憲主義に反する状態が続いてきたことになります。

 反対派は過去の憲法9条解釈の変更については立憲主義からの逸脱だという批判をしていません。それは結局、その変更に妥当性があると見ているからだといえるでしょう。

 自衛権は認められず、我が国は文字通りの非武装でなければならない、という敗戦直後の吉田首相の解釈では国が持たないのは、誰の目にも明らかなことです。

 問われなければならないのは、解釈を変えても良いかどうかではなく、変更の内容が妥当なものかどうかということなのです。

 また、政府が解釈変更を閣議決定したら、あとは政府のやりたい放題であるかのように言われていますが、実際には、我が国は法治国家である以上、解釈変更を反映した法律の制定や改正を行い、その法律のもとで政府は具体的施策を実行することになります。

 つまり、憲法解釈の変更の具体化は行政府だけで完結することはなく、必ず立法府での議論や判断を経た上でなされるのですから、民主主義的な手続きは十分に担保されており、「解釈変更は、内閣が憲法を支配するといういびつな統治構造を許す」(5月16日付朝日新聞社説)といった批判は完全に的外れです。

 

集団的自衛権が行使できなければ日米同盟に破局リスク

 では、集団的自衛権の行使が容認されるという9条の解釈には妥当性があるのでしょうか。

  憲法の文理上の問題から考えるとすると、9条を読めば分かるように、そこには「集団的自衛権」はもちろん、「自衛権」という言葉すら存在しません。

 それでも政府や裁判所は、9条で戦争放棄や戦力不保持が定められていても、「これによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」(1959年砂川事件最高裁判決)と解釈し、憲法に書かれていなくても、我が国は自衛権を保有するとしてきたのです。

 但し、憲法前文や9条の趣旨を踏まえると、「自衛権の行使は無制限ではなく、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」(1981年5月29日政府答弁書)とし、「集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」(同)としました。

 というのも、自国が直接攻撃を受けた時にこれに対処するための自衛権(個別的自衛権)の行使が認められるのは当然としても、集団的自衛権の行使は、自国が攻撃されなくても他国が攻撃を受けたら、それに対抗するために行動するということなので、防衛上の「必要最小限度の範囲」を超えると判断したからです。

 幸いにして、これまでは集団的自衛権の行使は禁じられているという解釈でも、我が国に安全保障上の大きな問題が発生することはありませんでした。

 しかし、今後もそうである保証は全くありません。

 中国は、南シナ海のベトナムの排他的経済水域で石油掘削を力ずくで強行し、東シナ海では尖閣諸島上空を含む防空識別圏を一方的に設定して、航空自衛隊機に異常接近を行うなど、近隣国への侵略的圧力を強めつつあります。

 北朝鮮も、足元では拉致問題への取り組みで一定の合意は見ましたが、核開発の進行には何ら歯止めが効かず、半島有事のリスクは常につきまとっています。

 我が国周辺で軍事紛争が勃発する蓋然性が高まっているのは否定のしようがなく、いずれ自衛隊と米軍が共同対処する場面が訪れるであろうことを十分に見越しておく必要があります。

 確かに尖閣有事であれば、日本の領土防衛という目的があるので、攻撃を受けた米軍に対する自衛隊の応援も個別的自衛権の行使と解釈できます。

 しかし、例えば、我が国が直接攻撃されない朝鮮半島有事において、日米が協力してそれぞれの在韓邦人の輸送作戦を展開している中、民間米国人を乗せた米軍艦船が攻撃を受けたという場合はどうでしょうか。

 付近の海上自衛艦が「集団的自衛権は行使できないので」と傍観を決め込んだら、米国民から非難が噴出し、もはや我が国は「共に戦うに値しない国」とみなされ、日米同盟は破局を迎えるでしょう。

 日米同盟が切れたら、中国が我が国を屈服させるのは簡単です。「核ミサイルを大阪に撃つぞ」とでも脅せば、独自の核抑止力を持たない日本は中国の言いなりになるしかありません。かくして我が国は中国の植民地となるに至るのです。

 

集団的自衛権を行使してこそ憲法前文の趣旨に適う

 したがって、自国が直接攻められた際の個別的自衛権は行使可能だが、他国が攻められた際に自国が応戦する集団的自衛権は行使不可というのは、ある意味で分かりやすい整理の仕方ですが、有事や周辺事態における日米共同作戦の具体的展開などは全く考慮に入れずに抽象的に組み立てられた机上の空論といえます。

 日米同盟の下、今後様々な形で自衛隊と米軍が共にオペレーションに入ることを想定すれば、いくら日米安全保障条約上は、米国に日本防衛義務があり、日本は代わりに基地提供義務を負うことで均衡しているといっても、自衛隊が米軍のためにも戦えるようになっていなければ同盟は事実上維持できないことが判ります。

 「自国のために戦ってくれる同盟国に対して基地だけは提供するが、自国は同盟国のためには何ら戦わない」という態度は、まともな軍備が持てない弱小国ならともかく、世界第3位の経済大国で、自衛隊というこれまた世界有数の実力組織を持つ日本には、国際的、客観的に見てふさわしいものとは認められないでしょう。

 集団的自衛権反対派の多くの人々が愛する憲法の前文には、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」とあります。

 集団的自衛権の行使を一切認めないというのは結局、安全保障面で「自国のことのみに専念し他国を無視」する考えであり、「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうと」しない姿勢であるというほかありません。

 上述の議論で明らかなように、集団的自衛権を行使しなければ日米同盟が維持できないリスクが高まり、日米同盟が維持できなければ、我が国は中国の属国にならざるを得ません。

 したがって、政府の憲法9条解釈の枠組みに従って考えれば、集団的自衛権の行使もいわゆる「必要最小限度」の自衛権の行使のうちに含めるべきです。

 もちろん、集団的自衛権の行使容認は、我が国としての平和と安全のためばかりでなく、東アジアの平和と秩序を米国と共同で守っていく上でも欠かせません。

 かつての世界の警察官・米国の退潮を受け、そこで生まれる力の空白を一党独裁の全体主義国家・中国が埋めることを許すのか、それとも日本が米国を引き戻しつつ、それで足りない部分を自らが補おうとするのか。

 我が国が「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(憲法前文)のであれば、いずれが望ましいか答えは明らかでしょう。

 

 立憲主義でも軍事力を拘束しない米国

 最後に、立憲主義との兼ね合いで指摘しておくなら、世界初の成文憲法であるアメリカ合衆国憲法に関して、制定時以来の古典的解釈書とされる『ザ・フェデラリスト』には、次のようなくだりがあります。

 「国民の安全を脅かすような事情は限りなく存在する。それゆえ、国民の安全の任を委ねられている権能に、憲法上の拘束を設けることは、賢明なやり方とはいえない」

 これは連邦政府の防衛に関する権能について基本的な考え方を述べたものですが、確かに米憲法には、我が国の憲法に押し付けたような「戦争を放棄する」とか「戦力を保持しない」とか「交戦権は認めない」といった拘束は一切ありません。

 米憲法の制定に携わった「建国の父」たちは、政府の国防上の権能を憲法で拘束すべき対象とは全く考えておらず、現代日本の憲法学者が自国の自衛権すらとにかく厳しく縛りつけようとしているのとは極めて対照的です。

 日米両憲法における国防の考え方がこのように対極的なのは、もちろん歴史的な経緯が大きく異なっていることに由来しますが、憲法と言えば軍事を厳しく縛るものという考え方は、日本特有のステレオタイプだともいえます。

 「国民の安全を脅かすような事情は限りなく存在する」という、国際社会に対するリアルな認識を持つことなく、自分たちは平和主義の美名のもとに憲法で自国の防衛手段を制限するが、その一方でそのようなリアルな認識を持って憲法で軍事力を拘束しない国と同盟を結ぶことによって自国の平和と安全を維持している――。

 集団的自衛権反対派の議論の根底にはこうした「卑怯さ」が存在することを、世の人々には広く認識していただきたいと思います。

 

※アイキャッチ画像は海上自衛隊ホームページより

立木 秀学
(ついきしゅうがく)
東京大学 法学部 第3類(政治コース)卒業後、幸福の科学入局。財務局長、専務理事などを歴任し、幸福実現党に入党。2010年7月から2012年12月まで幸福実現党党首を務める。
現在、HS政経塾塾長。
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