7/1 STAP論文撤回――理研は小保方氏「不正」認定を撤回せよ!

小保方氏「不正認定」と「検証実験参画」は矛盾する

 昨日6月30日付の日経新聞朝刊は、英科学誌ネイチャーが理化学研究所の小保方晴子氏らのSTAP細胞論文を週内にも撤回する見通しだと報じました。

 これにより、画期的な新発見として注目を集めた小保方氏らの研究成果が一旦白紙となります。

 一方、理研は同日、小保方氏がSTAP現象の検証実験に参画することを正式に発表しました。

 併せて、4月以降に提起された、STAP論文への新たな疑義についての予備調査を開始し、既に決定済みの「研究不正」に対する懲戒委員会の審査を一旦停止することも明らかにしています。

 STAP現象を再現させるには「コツがある」とする小保方氏が直接加わらなければ、STAP現象が真実かどうかは確認できないのですから、同氏の実験参画は歓迎すべき決定でしょう。

 しかし、それであれば理研は小保方氏の研究不正認定を撤回すべきです。

 というのも、研究不正認定と検証実験参画は根本的に矛盾するからです。

 文部科学省科学技術・学術審議会の特別委員会がまとめた「研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて」においては、

 「不正行為は(中略)科学そのものに対する背信行為であり、(中略)絶対に許されない。また、不正行為は、研究者の科学者としての存在意義を自ら否定するものであり、自己破壊につながるものでもある。これらのことを個々の研究者はもとより、研究者コミュニティや大学・研究機関、研究費の配分機関は理解して、不正行為に対して厳しい姿勢で臨まなければならない」

 とされており、小保方氏が不正行為に手を染めたのであれば、同ガイドラインの趣旨に則って、理研はその背信行為、自己破壊行為に対して厳しい姿勢で臨まなければならず、すなわち懲戒解雇やこれに近いレベルの処分を下し、同氏を事実上、科学界から追放しなければならないはずです。

 にもかかわらず、小保方氏を実験に参画させるというのは、これとはまったく正反対の対応です。

 このことがより明確になるのは、検証実験を通じてSTAP現象が真実であるという結論が得られた時です。

 小保方氏は研究不正を働いたが、その研究の結論は正しいものであった、というのであれば、その「研究不正」とはいかなるものなのでしょうか?

 科学そのものへの背信行為を含んでいる研究が新しい科学的な真実を発見する、ということが果たしてありうるのでしょうか?

 矛盾がはっきりと露呈します。

 これが意味するところは、小保方氏への「研究不正」は現時点でまだ結論付けられる段階にはなく、そのような認定は下すべきでなかったということです。

 仮に不正を認定するにしても(以下に述べる理由により、不正認定は不当と考えていますが)、小保方氏参加の検証実験で再現性がまったく認められないという結果が出てからにすべきだったということになります。

 

「悪意」の拡大解釈という“離れ業”

 前々回の当ブログ記事(bit.ly/1h4EDn9)でも指摘しましたが、不正認定を受けている論文の2箇所は本来「悪意のない間違い」(理化学研究所「科学研究上の不正行為の防止等に関する規定」〔以下「規定」〕)でしかなく、これを「研究不正」と認定したのは調査委員会の牽強付会です。

 STAP論文に対しては、3月31日付でまとめられた調査報告書で「研究不正」と結論づけられ、4月8日に小保方氏側が再調査を求めて不服申立てをしたものの、5月7日に調査委員会によって「再調査しない」という決定がなされ、その「研究不正」が確定しました。

 3月末の調査報告書に記載された、研究不正の要件となる「悪意」の論証は大変ずさんなものでしたが、5月の不服申立てへの審査結果報告では、調査委員会はなんとこの「悪意」の定義を拡大するという“離れ業”を使い、以って小保方氏の行為を不正と認定しています。

  同審査結果報告2ページでは、

 「悪意を害意など、上記の認識を越えた加害目的に類する強い意図と解すると、そのような強い意図がある場合のみに規程の対象とすることになるが、その結果が、研究論文等の信頼性を担保するという規程制定の目的に反することは明らかである」(下線筆者)

 として、積極的に騙そうとする害意などがなくても、不正と疑われる行為の事実を単に「知っている」だけで、悪意があったと認めるべきだと論じています(法律用語の「故意」と同義に解するということ)。

 しかし、これでは、いかなる過失や思い込みによる間違いも、執筆した著者がその部分を無意識に書いて記憶もしていないということでもない限り、記述内容を知らないということはあり得ないので、結局すべて「悪意あり」として不正認定を下すことが可能となります。

 不正行為の性質について上記の文科省ガイドラインが、背信行為、存在意義の否定、自己破壊という強い否定的言辞で表現していることから分かるように、研究不正には害意など「加害目的に類する強い意図」を伴っていると理解するのが妥当です。

 研究論文等の信頼性を担保するためとはいえ、そのような害意のない過失や間違いを「不正」認定して背信行為として重い処分を課すようにするのは、目的に比して重すぎる手段を採らないよう要請する、いわゆる「比例原則」に反しています。

 このように、調査委員会がわざわざ「悪意」の定義を、害意など「加害目的に類する強い意図」を伴わないものにまで広げたということは、委員会がそうした加害的な意図を小保方氏の行為に見出すことができなかったことを意味しており、実にこの点からしても、小保方氏の行為は本来「研究不正」に該当しないと判断することができます。

 

再実験を無意味とする強引な「捏造」認定

 もう一点、審査結果報告についてやや細かな矛盾を指摘するとすれば、その「捏造」認定の仕方が問題です。

 同審査結果報告8ページでは、

 「規程第2 条第2 項は、『捏造』とは、『データや研究成果を作り上げ、これを記録または報告すること』としている。したがって、(中略)論文に記載されている実験と同じ条件下で得られたデータがあるとしても、捏造の範疇にあるか否かは、当該論文との関係において、当該データが論文に記載されている実験条件下で作成されたものであるか否かにより判断されるものである」(下線筆者)

 と書かれており、前の下線部と後ろの下線部ではよく似た表現なので何が違うのか一瞬戸惑いますが、要するに前の下線部は再現実験等で得られたデータ、後ろの下線部は当該論文のために行われた実験そのもので得られたデータであることを、それぞれ意味していると理解されます。

 前者のデータは、捏造の範疇にあるかかどうかを判断するのに用いるべきでないとしているのですが、それはSTAP論文の場合、博士論文からの流用が疑われた画像データに差し替えて、正しいものとして後から小保方氏らからネイチャー誌に提出された画像データのことを指すのでしょう。

 この画像データは、論文に向けた実験の時ではなく、後から撮り直したものですが、そのようなデータが存在したとしても、捏造かどうかの判定に使用されることはないと調査委員会は言っているわけです。

 しかし、このように捏造が行われたかどうかの判断の対象とするデータの範囲を狭めてしまうと、同じ条件を再現して行われた検証実験を行っても、そこで得られた結果は捏造か否かの判断に当たってまったく考慮されないと言っているに等しく、つまるところ、再現実験には意味がないことになってしまいます。

 ところが、規定第15条第5項では研究不正の調査において「再実験」を行えることが記載されており、これで得られたデータを元に研究不正の有無を判断できることが想定されています。調査委員会の捏造判断の仕方は、この理研の規定に反していると言わざるを得ません。

 これは、小保方氏の過失による画像データの取り違えを無理やり「捏造」と結論付けるために、調査委員会自ら、規定から逸脱する判断枠組みを「捏造」してしまったということで、「語るに落ちた」の一語に尽きます。

 あるいは、論文の体裁というマナーの問題にとらわれすぎて、実験を通じて示される現象なり事実なりが実在するのかどうかという、肝心なマターの問題を見落としてしまったがゆえの失敗ということもできるでしょう。

 以上のように、理研の調査委員会による小保方氏への不正認定には致命的な破綻が存在します。理研は不正認定を一日も早く撤回して、小保方氏の名誉を毀損したことにつき謝罪と賠償を行い、同氏の速やかな名誉回復を図るべきです。

 

 ※ 文意をわかりやすくするため、表現の一部を変更し、若干の文を追加しました。論旨はまったく変わっていません(7月2日)。

5/31 集団的自衛権の行使容認は立憲主義に反する?

反対派のプロパガンダで煽られる世論

 憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認をめぐって、国会で目下、論戦が繰り広げられています。

 集団的自衛権の問題が政治日程化して以降、これに反対するメディアや識者からの批判は鳴り止まず、その影響を受けてか、行使容認への反対が賛成を上回るという世論調査の結果が各紙で報道されています(但し、産経新聞は、賛成が反対を上回る結果を報道)。

 反対派からは、しばしば「政府による憲法解釈の変更は立憲主義に反する」という主張がなされています。安倍晋三政権が適正な手続きを経ずに憲法の趣旨を大きく変えようとしているというのです。

 立憲主義とは、国家権力を憲法によって拘束することで、政府の恣意的な権力行使を防ぎ、もって国民の自由や権利が政府によって侵害されないようにしようという考え方です。

 では、政府による憲法解釈の変更はその立憲主義に反しているのでしょうか。

 実のところは、そのような批判はまったく当たっておらず、反対派のプロパガンダに過ぎません。

 

政府の憲法解釈変更は憲法上何の問題もない

 これまで憲法9条の政府解釈を担ってきたのは内閣法制局です。「我が国は国際法上、集団的自衛権を保有しているが、憲法上その行使を許されない」という憲法解釈は戦後、同局が中心になって作り上げたものです。

 内閣法制局はその名が示す通り、内閣に属する一行政機関です。憲法72条では「内閣総理大臣は、(中略)行政各部を指揮監督する」と規定されており、首相には同局の業務について指揮監督する憲法上の権限があります。

 したがって、首相は政府の憲法解釈についても内閣法制局の仕事を指揮監督し、不都合があればその変更を指示することは立憲主義に反するどころか、憲法上何ら問題ない、当たり前のことです。

 もちろん、時の政権が国会の発議や国民投票を通さず勝手に憲法そのものを変更したら(まず、あり得ないことですが)、それは改憲手続きを定めた96条違反ですし、立憲主義に反します。

 しかし、今回問題になっているのは内閣法制局による憲法9条の「解釈」です。

 その解釈は、首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が、今月15日に提出した報告書も指摘している通り、憲法制定時から既に大きく変更されてきたという事実があります。

 1946年6月、吉田茂首相は新憲法制定時の帝国議会答弁で、9条は「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したもの」と述べ、自衛権の発動は許されないとの解釈を示しました。

 ところが、自衛隊創設後の1954年12月、大村清一防衛庁長官は、「憲法は戦争は放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない」と衆議院予算委員会で発言し、自衛権の発動を容認しています。

 解釈を変えることが即、立憲主義に反するというなら、既に1954年からこのかた60年、立憲主義に反する状態が続いてきたことになります。

 反対派は過去の憲法9条解釈の変更については立憲主義からの逸脱だという批判をしていません。それは結局、その変更に妥当性があると見ているからだといえるでしょう。

 自衛権は認められず、我が国は文字通りの非武装でなければならない、という敗戦直後の吉田首相の解釈では国が持たないのは、誰の目にも明らかなことです。

 問われなければならないのは、解釈を変えても良いかどうかではなく、変更の内容が妥当なものかどうかということなのです。

 また、政府が解釈変更を閣議決定したら、あとは政府のやりたい放題であるかのように言われていますが、実際には、我が国は法治国家である以上、解釈変更を反映した法律の制定や改正を行い、その法律のもとで政府は具体的施策を実行することになります。

 つまり、憲法解釈の変更の具体化は行政府だけで完結することはなく、必ず立法府での議論や判断を経た上でなされるのですから、民主主義的な手続きは十分に担保されており、「解釈変更は、内閣が憲法を支配するといういびつな統治構造を許す」(5月16日付朝日新聞社説)といった批判は完全に的外れです。

 

集団的自衛権が行使できなければ日米同盟に破局リスク

 では、集団的自衛権の行使が容認されるという9条の解釈には妥当性があるのでしょうか。

  憲法の文理上の問題から考えるとすると、9条を読めば分かるように、そこには「集団的自衛権」はもちろん、「自衛権」という言葉すら存在しません。

 それでも政府や裁判所は、9条で戦争放棄や戦力不保持が定められていても、「これによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」(1959年砂川事件最高裁判決)と解釈し、憲法に書かれていなくても、我が国は自衛権を保有するとしてきたのです。

 但し、憲法前文や9条の趣旨を踏まえると、「自衛権の行使は無制限ではなく、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」(1981年5月29日政府答弁書)とし、「集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」(同)としました。

 というのも、自国が直接攻撃を受けた時にこれに対処するための自衛権(個別的自衛権)の行使が認められるのは当然としても、集団的自衛権の行使は、自国が攻撃されなくても他国が攻撃を受けたら、それに対抗するために行動するということなので、防衛上の「必要最小限度の範囲」を超えると判断したからです。

 幸いにして、これまでは集団的自衛権の行使は禁じられているという解釈でも、我が国に安全保障上の大きな問題が発生することはありませんでした。

 しかし、今後もそうである保証は全くありません。

 中国は、南シナ海のベトナムの排他的経済水域で石油掘削を力ずくで強行し、東シナ海では尖閣諸島上空を含む防空識別圏を一方的に設定して、航空自衛隊機に異常接近を行うなど、近隣国への侵略的圧力を強めつつあります。

 北朝鮮も、足元では拉致問題への取り組みで一定の合意は見ましたが、核開発の進行には何ら歯止めが効かず、半島有事のリスクは常につきまとっています。

 我が国周辺で軍事紛争が勃発する蓋然性が高まっているのは否定のしようがなく、いずれ自衛隊と米軍が共同対処する場面が訪れるであろうことを十分に見越しておく必要があります。

 確かに尖閣有事であれば、日本の領土防衛という目的があるので、攻撃を受けた米軍に対する自衛隊の応援も個別的自衛権の行使と解釈できます。

 しかし、例えば、我が国が直接攻撃されない朝鮮半島有事において、日米が協力してそれぞれの在韓邦人の輸送作戦を展開している中、民間米国人を乗せた米軍艦船が攻撃を受けたという場合はどうでしょうか。

 付近の海上自衛艦が「集団的自衛権は行使できないので」と傍観を決め込んだら、米国民から非難が噴出し、もはや我が国は「共に戦うに値しない国」とみなされ、日米同盟は破局を迎えるでしょう。

 日米同盟が切れたら、中国が我が国を屈服させるのは簡単です。「核ミサイルを大阪に撃つぞ」とでも脅せば、独自の核抑止力を持たない日本は中国の言いなりになるしかありません。かくして我が国は中国の植民地となるに至るのです。

 

集団的自衛権を行使してこそ憲法前文の趣旨に適う

 したがって、自国が直接攻められた際の個別的自衛権は行使可能だが、他国が攻められた際に自国が応戦する集団的自衛権は行使不可というのは、ある意味で分かりやすい整理の仕方ですが、有事や周辺事態における日米共同作戦の具体的展開などは全く考慮に入れずに抽象的に組み立てられた机上の空論といえます。

 日米同盟の下、今後様々な形で自衛隊と米軍が共にオペレーションに入ることを想定すれば、いくら日米安全保障条約上は、米国に日本防衛義務があり、日本は代わりに基地提供義務を負うことで均衡しているといっても、自衛隊が米軍のためにも戦えるようになっていなければ同盟は事実上維持できないことが判ります。

 「自国のために戦ってくれる同盟国に対して基地だけは提供するが、自国は同盟国のためには何ら戦わない」という態度は、まともな軍備が持てない弱小国ならともかく、世界第3位の経済大国で、自衛隊というこれまた世界有数の実力組織を持つ日本には、国際的、客観的に見てふさわしいものとは認められないでしょう。

 集団的自衛権反対派の多くの人々が愛する憲法の前文には、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」とあります。

 集団的自衛権の行使を一切認めないというのは結局、安全保障面で「自国のことのみに専念し他国を無視」する考えであり、「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうと」しない姿勢であるというほかありません。

 上述の議論で明らかなように、集団的自衛権を行使しなければ日米同盟が維持できないリスクが高まり、日米同盟が維持できなければ、我が国は中国の属国にならざるを得ません。

 したがって、政府の憲法9条解釈の枠組みに従って考えれば、集団的自衛権の行使もいわゆる「必要最小限度」の自衛権の行使のうちに含めるべきです。

 もちろん、集団的自衛権の行使容認は、我が国としての平和と安全のためばかりでなく、東アジアの平和と秩序を米国と共同で守っていく上でも欠かせません。

 かつての世界の警察官・米国の退潮を受け、そこで生まれる力の空白を一党独裁の全体主義国家・中国が埋めることを許すのか、それとも日本が米国を引き戻しつつ、それで足りない部分を自らが補おうとするのか。

 我が国が「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(憲法前文)のであれば、いずれが望ましいか答えは明らかでしょう。

 

 立憲主義でも軍事力を拘束しない米国

 最後に、立憲主義との兼ね合いで指摘しておくなら、世界初の成文憲法であるアメリカ合衆国憲法に関して、制定時以来の古典的解釈書とされる『ザ・フェデラリスト』には、次のようなくだりがあります。

 「国民の安全を脅かすような事情は限りなく存在する。それゆえ、国民の安全の任を委ねられている権能に、憲法上の拘束を設けることは、賢明なやり方とはいえない」

 これは連邦政府の防衛に関する権能について基本的な考え方を述べたものですが、確かに米憲法には、我が国の憲法に押し付けたような「戦争を放棄する」とか「戦力を保持しない」とか「交戦権は認めない」といった拘束は一切ありません。

 米憲法の制定に携わった「建国の父」たちは、政府の国防上の権能を憲法で拘束すべき対象とは全く考えておらず、現代日本の憲法学者が自国の自衛権すらとにかく厳しく縛りつけようとしているのとは極めて対照的です。

 日米両憲法における国防の考え方がこのように対極的なのは、もちろん歴史的な経緯が大きく異なっていることに由来しますが、憲法と言えば軍事を厳しく縛るものという考え方は、日本特有のステレオタイプだともいえます。

 「国民の安全を脅かすような事情は限りなく存在する」という、国際社会に対するリアルな認識を持つことなく、自分たちは平和主義の美名のもとに憲法で自国の防衛手段を制限するが、その一方でそのようなリアルな認識を持って憲法で軍事力を拘束しない国と同盟を結ぶことによって自国の平和と安全を維持している――。

 集団的自衛権反対派の議論の根底にはこうした「卑怯さ」が存在することを、世の人々には広く認識していただきたいと思います。

 

※アイキャッチ画像は海上自衛隊ホームページより

4/28 理研は小保方氏を研究に復帰させ、野依理事長は辞任を

STAP細胞の有無と論文不正の有無が錯綜

 理化学研究所のSTAP細胞問題で、小保方晴子氏による論文不正があったとの判定を下した「研究論文の疑義に関する調査委員会」の石井俊輔委員長が25日、自らの論文不正疑惑を受けて、委員長を辞任しました。

 調査委員会は、小保方氏の実験データ画像の切り貼りを「改ざん」として研究不正に当たる、と判定していましたが、石井氏自らが過去に同様の疑惑を招く行為をしていたのであれば、小保方氏を裁く資格はなく、辞任は当然でしょう。

 STAP細胞問題に関しては、STAP細胞そのものが存在するか否かという論点と、小保方氏らの論文に不正があるか否かの論点の二つの要素があるのですが、小保方氏と調査委員会が争っているのは後者の不正の有無の問題です。

 ところが、マスコミ報道では、不正の疑いがあるからSTAP細胞は存在しないに決まっているとか、9日の記者会見で小保方氏がSTAP細胞が存在する証拠を示さなかったのは良くないなどといった非難がなされており、議論が錯綜しています。

 

データの改ざん? 画像の捏造?

 不正の有無については、実験データ画像の切り貼りと、博士論文からの流用と疑われた画像の取り違えとの2箇所が問題となっており、調査委員会が1日に発表した報告書ではそれぞれ「改ざん」、「捏造」という不正であると結論づけられています。

 これに対して小保方氏側は、いずれの問題箇所も真正なデータや正しい画像が存在しているので、そもそも偽装に向けた改ざんや捏造ではあり得ず、悪意のない過失だとしています。

 辞書的には、改ざんは「文書の字句などを書き直してしまうこと。普通、悪用する場合にいう」(大辞林第三版)とされ、捏造とは「実際にはありもしない事柄を,事実であるかのようにつくり上げること」(同)とされています。

 前者の改ざんは厳密には、何かに改変を加えることそのものを意味する言葉ですが、一般的には「帳簿の改ざん」という表現に見られるように、その改変を通じて事実とは異なる見せかけを作り出し、本人の利益を図る行為と理解されます。

 今回の問題の判断基準となる、理研の「科学研究上の不正行為の防止等に関する規程」でも、改ざんの定義は「研究資料、試料、機器、過程に操作を加え、データや研究結果の変更や省略により、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること」とされていることから、単なる変更等だけでは「改ざん」に当たらず、その変更等によって「結果等を真正でないものに加工する」、即ち真実とは異なる見せかけを作るという要件が必要になります。

 

十分な論証なく「不正」を認定

 本件においては、改ざんにせよ、捏造にせよ、事実でないものを事実であるかのように悪意をもって偽装したかどうかが本質的な問題です。上記の理研の規程でも「悪意のない間違い」は研究不正に含まないとしています。

 したがって、小保方氏側が真正のものとして提示しているデータや画像がその通りに正しいもの、偽装を含まないものと確認できれば、問題箇所は研究不正ではなく過失による間違いと判断されます。あとは論文に訂正を入れれば済んでしまう話となります。

 実験データ画像の切り貼りについては、小保方氏は、データに改変を加えたことは事実にしても、切り貼りせずにデータ画像を掲載しても結果は変わらないとしています。やってもやらなくても結果が変わらない行為であるなら、そこに悪意を認定しようとすることは無理があります。

 調査委員会の報告書では、切り貼りを「綺麗に見せる図を作成したいという目的性をもって行われたデータの加工」と認定しており、「データの誤った解釈へ誘導することを、直接の目的として行ったもの」とまでは認定していません(*1)。

 つまり、調査委員会も小保方氏の偽装に向けた悪意を十分に論証できていないのです。にもかかわらず、切り貼りを「改ざん」に当たる研究不正と決めつけており、冤罪というべき判定です。

 博士論文からの流用と疑われた画像の取り違えについては、そのように指摘される前に自ら不適切な画像であることに気づき、2月20日に委員会に対して修正の申し出と正しい画像ファイルの提出があったことから、小保方氏に悪意がなかったであろうことが積極的に推定されます。

 むしろ、委員会の方が、正しいものとして提出された画像について調査を十分に行っていない(あるいは行ったかもしれないが、その結果が調査報告書には記載されていない)ことが指摘されています。

 後で提出された画像が正しいものであるかどうかを確認せずして、捏造かどうかを判定することはできないのに、調査報告書ではその点について何も触れていないのです。研究不正と認定するだけの必要十分な論証がここでもなされておらず、ずさんな調査と言わざるを得ません。

 

小保方氏に「弁明の機会」は与えられたのか

 現在は、調査結果への小保方氏側からの不服申立てを受けて、調査委員会が再調査をするかどうかを審査している状況です。

 再調査があってもなくても、結論として不正認定が維持されるということになれば、小保方氏は懲戒処分の対象となり、少なくとも日本での研究者生命は絶たれることになるでしょう。

 人権擁護の観点から、個人にとって重大な不利益となる処分を下す際には、事前に定められた規則に則り、十分な慎重さと入念さを以って適正に進められなければなりません。今回の調査委員会による調査はその点で疑念を抱かせる余地が大いにあります。

 小保方氏の代理人弁護士は、委員会の調査では本人から直接の聞き取りは1回しか行われておらず、やり取りはメールが中心だったとしています。

 上記の理研の規程では、調査においては、調査対象者に「弁明の機会」を与えなければならないと定められていますが、弁護士の言う通りあれば、小保方氏にはきちんとした弁明の機会が与えられなかったと見るべきでしょう。

 このように手続き的には重大な瑕疵があり、また内容的にも不正認定の論証が上述のようにずさんなものであることから、本調査は到底適正なものとは認められません。

 ガリレオ・ガリレイを有罪と決めつけた、ローマ教皇庁によるお手盛りの異端審問を彷彿とさせる暗黒調査といえます。

 

ずさん調査の責任を取って野依理事長は辞任すべし

 調査委員会がこのようなやっつけ仕事を行った背景には、この4月以降に理研が政府から「特定国立研究開発法人」の指定をもらう予定であったことが指摘されています。

 理研が同法人に指定されれば、世界最高水準の研究機関を目指して補助金や給与面で優遇されることになるので、近年は野依理事長の号令のもと、指定取得に向けて末端の職員に至るまで躍起になっていたと言われています。

 STAP細胞問題を巡って、2月半ば過ぎに立ち上がった調査委員会が調査をずさんに片付け、4月1日に最終結論を出し急いだのは、理研の同法人指定に影響が出ないよう事態の収束を図るためだったと見てよいでしょう。

 理研の特定国立研究開発法人化(*2)はそれはそれで大事な案件だろうとは思います。しかし、だからと言って、個人にとってその研究者生命を失わしめる論文不正の判定を、やっつけ仕事で行うことは決して許されることではありません。まさに人権侵害そのものです。

 したがって、調査委員会は小保方氏からの不服申立てを受け、内容的にも手続き的にもずさんな不正認定を取り消すべきです。不正がなかったからには、小保方氏は当然、これまで通りの研究への復帰が認められなくてはなりません。

 そして、理研のトップ、野依理事長は、調査委員会を立ち上げたものの、その調査を適正に行うことができず、小保方氏の人権を侵害した責任を取って辞任すべきです。

 

 小保方氏に汚名返上のチャンスを

 これまでは、小保方氏の論文不正の有無に関する議論でした。あとは、そもそもSTAP細胞があるのかどうかという問題が残されています。

 これについては小保方氏のチームに研究を続行してもらい、一定の時間をかけて明確な結論を出してもらうことでよいのではないでしょうか。

 このように言うと、不正を疑われるような人間に研究を行う資格はない、といった意見が特に理系の研究者や専門家から出てきそうです。

 しかし、日本発の新しい発見・発明を増やしていこうとするなら、そのようなオール・オア・ナッシングや減点主義の発想ではなく、悪意のない間違いや失敗にはもう少し寛容になって、再チャレンジを促す気風を醸成すべきでしょう。

 もちろんルールを軽視してよいということではありませんが、不正がなかったと判定されるなら、最低限の倫理的な問題はクリアされるわけですから、汚名返上に向けて頑張るチャンスを小保方氏に与えるべきです。

 不正が疑われた箇所以外の論文の疑問点については、小保方氏らに説明責任を果たしてもらい、すぐに結論が出ないものについては彼らが研究を進める中で答えをきっちり出していくよう求めればよいのです。

 マスコミ報道を見ると、理系の専門家や研究者からは、これまでの生物学の常識を覆す研究内容であることへの反発も手伝って、「データや証拠をすぐに出せ」とか、「再現実験が成功しない。目の前で実験してみせろ」という、感情的な厳しい批判が渦巻いています。

 そうしたことができるならそれに越したことはありませんが、データ等の情報に関しては研究競争上の優位性や特許など知財の問題に絡むところでもあるので、何から何まで全部開示せよというのは酷でしょう。

 また、再現実験の問題についても、「世界トップレベルの研究ともなると、ギリギリの状態で実験が行われることが多く、ネイチャーなどの論文に掲載された研究のかなりの割合が追試困難」(*3)という指摘もあるので、追及はほどほどにすべきです。

 小保方氏は記者会見で、今回の論文は現象論の記述のみで、STAP細胞作成の最適条件を示す論文はこれから作成するという旨を発言していました。

 こうした進め方については、一般的に考えて理解できないわけではないですし、ネイチャー誌がその論文を掲載したという事実を踏まえれば、その進め方は自然科学の世界でも受け入れられる余地があるものと考えられます。

 それでもSTAP細胞や小保方氏を疑っているあなた、最終的な結論が出るまでもう少し時間を待ってみてもよいではありませんか。

 ここでSTAP細胞の研究を中止してしまうと、科学上の大発見の機会をみすみす逃してしまう可能性がありますし、レシピやコツを持っている小保方氏を外してSTAP現象の検証を進めてみても、検証は成功せずせっかくの機会を失う蓋然性が高いでしょう。

 研究にかかるお金がもったいないという人もいますが、ある意味で怪しげに見える案件に取り組む余裕を失い、ただただ確実性の高そうな案件ばかり追究するようになると、常識を覆すような新たな発見・発明はほとんど出てこなくなります。

 これからの日本に必要なのは、小保方氏のように従来の常識にとらわれずに、新しい発見を求めて果敢に挑戦していく科学者です。

 本当に成功するのはその中の一握りなのかもしれませんが、それでもその人たちが画期的な新発見や新技術をもたらしてくれれば、国民や世界人類に裨益するところは極めて大きいでしょう。

 科学技術の新しい未来を開いていくためには、それに携わる人々や関係する人々に、現今のヒステリックなマスコミ報道に惑わされない、冷静かつ柔軟な対応や発想が求められるのではないでしょうか。

 

【注】

(*1)調査委員会の報告書は小保方氏のデータの切り貼りを「データの誤った解釈を誘導する危険性を生じさせる行為」であり、「そのような危険性について(小保方氏が)認識しながらなされた行為」と評価しています。微妙な言い回しではありますが、要するに委員会が指摘し得たのはせいぜい「危険性」、それも本人の主張にとって好都合なのかどうかはっきりしない「危険性」に過ぎず、本人の主張に都合が良くなるように「結果等を真正でないものに加工」した行為、そのような目的性を以ってなされた行為とは断定できなかったということです。

(*2)政府は当初、理研を同法人に指定する法案を4月中旬に閣議決定し、国会提出する方針でしたが、STAP細胞論文問題を受けて、菅義偉官房長官は9日の会見で「少なくとも問題解決のめどが立たないうちに閣議決定はしない」と述べました。

(*3)<小保方さん会見>論点整理と論文の核心部分とは | THE PAGE(ザ・ページ) http://thepage.jp/detail/20140409-00000030-wordleaf?page=2

 

 【参考文献】

 ・大川隆法著『小保方晴子さん守護霊インタビュー それでも「STAP細胞」は存在する』(幸福の科学出版)

 ・1 理研STAP細胞論文調査委員会報告への根本的疑問―あえて改めて小保方氏を擁護する http://blogs.yahoo.co.jp/teabreakt2/15348853.html

 ・理研STAP細胞調査報告書の「改竄」認定が不合理な理由―理研STAP細胞論文調査委員会報告への根本的疑問(2) http://blogs.yahoo.co.jp/teabreakt2/15348864.html

 ・理研STAP細胞調査報告書の「捏造」認定は杜撰に過ぎる―理研STAP細胞論文調査委員会報告への根本的疑問(3) http://blogs.yahoo.co.jp/teabreakt2/15348867.html