6/22 集団的自衛権・再論

盛り上がる集団的自衛権違憲論

 前回のブログ更新から半年以上が経ってしまいました。当ブログを愛読してくださっていた皆様、すみません! HS政経塾から書籍発刊を予定しており、その執筆・編集に追われていたというのがこの数ヶ月の実情です。

 今回は、集団的自衛権の行使を限定容認した政府・与党の安全保障関連法案に対して「違憲だ」という批判が最近高まっているため、このテーマについて考えてみたいと思います。

 6月4日に衆議院の憲法審査会で与党参考人の憲法学者・長谷部恭男早稲田大教授が、同法案を「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがす」と述べたことをきっかけに、集団的自衛権行使容認への批判が盛り上がっています。

 長谷部氏は15日には、従来改憲派で知られた小林節慶応大名誉教授と共に記者会見を行い、改めて安保法案を違憲とし、その撤回を求めました。

 かくして、与党が推薦した憲法学者ですら「違憲」と言っているのだから、安保法案はやはり憲法に違反するので廃案にすべきだ、という議論がマスコミを賑わしています。

 この問題に関しては、昨年5月に「集団的自衛権の行使容認は立憲主義に反する?」(http://bit.ly/1ktgM0W)という記事を書きましたが、私の見解はそこから基本的に変わっていません。集団的自衛権の行使容認は憲法違反ではなく、立憲主義に反するものでもないというのが結論です。

 ちなみに小林氏は、私が幸福実現党の党首を務めていた頃には、共にラジオ番組に出演していただいたり、党の政策勉強会で講師をしていただいたりして、大変お世話になった方なのですが、第二次安倍政権成立以降はお考えを改められたようで、今では以前とは反対の論陣を張られています。

 この小林氏の動きも、「改憲派だったはずの小林氏ですら反対しているのだから、安倍政権のやっていることは憲法上問題があるに違いない」という見方を醸成しており、安倍政権の外交・安全保障政策の方向性を良しとする私達の立場からは、一定の批判を加えざるをえず、大変残念です。

 

集団的自衛権の行使を認めなければ日米同盟が危うい

  さて、集団的自衛権――自国と密接な関係にある他国が武力攻撃を受けた場合に、自国がその他国を援助し、共同して防衛にあたる権利――については、憲法9条に対する従来の政府解釈では「我が国は主権国家してその権利を有しているものの、その行使は禁じられている」としてきました。

 憲法9条は戦争放棄や戦力不保持を定めていますが、国家の自衛権までをも否定するものではなく、我が国に急迫不正の侵害があった場合、これを排除するために他の適当な手段がなければ、自衛権の発動として必要最小限度の実力行使が認められる、と解釈されています。

 では、その「必要最小限度」に集団的自衛権は含まれるのかといえば、「含まれない」というのが従来の解釈だったのです。

 自国が攻撃を受けたら、それを阻止するために実力を行使すること(個別的自衛権)が認められるのは当然ですが、自国が攻撃されてもいないのに他国を防衛するために実力を行使できるとする集団的自衛権は必要最小限度を超えているというのが、その理由です。

 一見、分かりやすい論理ですが、実は重大な欠陥を抱えています。この解釈には、日本の安全保障を破綻させかねないリスクが存在するのです。以下で、そのことを説明します。

 まず、我が国の安全保障は自衛隊と日米同盟の二本立てによって成り立っているのは周知の事実です。

 特に核戦略の面では、日本は中国、ロシア、そして北朝鮮と、核兵器保有国に囲まれていますが、これらの国への核抑止力については全面的に米国に頼っている状態です。

 したがって、もし、日米同盟が切れてしまって、米国が我が国に核抑止力を提供しない(すなわち日本が核攻撃を受けても、米国が日本に代わって核で反撃しない)ことが確定したら、その瞬間から中国は核兵器で脅すことによって我が国をいつでも属国に貶めたり、中国の一部として併合することが可能となります。

 つまり、日米同盟が切れたら、日本の独立と平和は失われる蓋然性が極めて高いのです。

 では、日米同盟が切れるリスクはどの程度あるのでしょうか。

 1951年にサンフランシスコ平和条約と共に旧安保条約を結び、1960年にはこれを改定して新安保条約を締結。以来55年が経ち、その間、経済摩擦等はあったものの、日米両国は基本的な価値観を共有し、非常に良好な関係を築いてきました。

 このような歴史的経緯を踏まえれば、日米同盟が簡単に崩れてしまうのは考えにくいように見えます。

 しかし、日本が従来通り、集団的自衛権の行使を認めず、自国が攻撃を受けたら米国に加勢して戦ってもらうが、自国が攻撃を受けない限り、米国が攻撃を受けても戦わないという方針を貫いたら、今後、日米同盟はどうなるでしょうか。

 例えば、朝鮮半島などの有事で米海軍と海上自衛隊が共同対処している際に、米艦船だけが攻撃を受けた場合、海自艦船は何もせず傍観するか、戦闘に巻き込まれないよう、その場を立ち去るという対応になります。

 あるいは、北朝鮮などから米国を狙ったミサイルが発射されて、日本上空を飛翔するというケースでも、我が国はミサイルの迎撃はせず、これをやり過ごすことになります。

 このような自衛隊や我が国政府の動きを見て、米国の政治家や一般国民はどのように感じるでしょうか。

 同盟国であるはずの日本が肝心なところで米国を助けてくれない。日本自体の安全保障にも密接に関わっている状況であるにも拘らず、その状況に対応している米軍を見捨てる。これで果たして同盟国といえるのか。こんな日本と同盟を組む意味があるのか。

 きっと、このような不満が噴出し、日米同盟の維持は極めて難しくなることが想定されます。

 いくら我が国が集団的自衛権の行使は憲法上禁止されているといっても、それは日本の勝手でしかなく、上記のような状況で日本が何もしなければ、同盟を維持する前提となる米国との信頼関係が崩壊してしまうのです。

 日米同盟が維持できなければ、我が国の独立と平和がたちまち失われるのは上述した通りです。

 したがって、自衛権の発動としての必要最小限度の実力行使のうちに、集団的自衛権によるものも含まれていなければ、日米同盟が破綻に至る状況が生じかねず、我が国の独立と平和と安全を守り切ることも困難になります。

 朝鮮戦争の休戦以降、これまでは幸いにして、我が国やその周辺で武力衝突や有事というべき事態が生じたことはありませんでしたが、今後もそうである保証はなく、中国、北朝鮮の動向を見れば、むしろ武力衝突や有事の蓋然性が高まっています。

 有事はいつ何どき起きるか分からない性質のものであるため、ここで解釈を適正化して、限定的にでも集団的自衛権の行使を認めるようにしておかなければなりません。事が起こってからでは手遅れです。

 

 実は日米安保条約と矛盾していた従来の政府解釈

 以上では、我が国の安全保障の実態に基づいて集団的自衛権行使容認の必要性を論じましたが、以下では集団的自衛権の問題の法律的な側面を論じます。

 現行の日米安保条約の前文では、「(日米)両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」と記されています。

 従来の政府解釈も、これと矛盾が生じないよう、主権国家として集団的自衛権を保有しているが、その行使が憲法で禁じられている、としてきました。

 これに対して、「権利を有しているといっても、行使できないなら、権利を持たないのと同じで、おかしいではないか」という批判が行使容認派からなされ、この批判に対して、「タバコを吸う権利は大人であれば誰にもあるが、健康のことを考えて、私はやめておくというのがおかしくないのと同じ」(長谷部氏)と、行使反対派から反論がなされています。

 しかし、ここで疑問が湧くのは「行使できない権利を有することを条約上で確認することに一体何の意味があるのか」ということです。

 特に日米安保条約のように、同盟の基礎となる条約においては、お互いに集団的自衛権が行使できるかどうかは条約の核心的な部分を構成するはずですが、これについて条約上「有している」と確認しておきながら、国内では「行使できない」と解釈しているのは、常識的に考えて信義則に反するのではないでしょうか。

 何の断りもなく「権利を有する」といえば、それは「権利を行使できる」ことと同義と理解するのが当然で、「権利を有するが、それを行使しないようにしている」ということであれば、そのことを条約上でしっかり明文化しておかなければ、特に同盟関係の基本となる条約においては「欺瞞的」との誹りを免れません。

 実際には、現行の日米安保条約を締結した岸信介首相は、国会における答弁で「集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということだが、それに尽きるものではないと我々は考えている。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たないということは言い過ぎだと考えている」と述べています。

 「一切の集団的自衛権を持たない」と表現されていますが、これは、集団的自衛権の「保有」と「行使」を厳密に区別する政府解釈が確立する前の発言なので、「一切の集団的自衛権を行使できない」と同じ意味で理解することができます。

 つまり、岸首相の認識としては、自衛隊が米国まで出かけてこれを防衛することはできないが、それ以外の集団的自衛権の行使はありうる、というものだったわけです。

 それはそうでしょう。集団的自衛権について「一切行使できない」と認識していながら、わざわざ「有していることを確認する」とだけ謳った条約を結ぶことなど、まともな神経の持ち主であれば、できることではありません。

 したがって、我が国は、少なくとも岸内閣の頃には、集団的自衛権の行使が限定的に容認されているという解釈をしていたことは明らかですし、他国と同盟関係を築き、維持する上では、そのような解釈こそ取られなくてはならないのです。

 その後、1970年代から80年代にかけて「集団的自衛権を国際法上保有するが、憲法上行使できない」、「なぜなら集団的自衛権の行使は、自衛権の行使における必要最小限度の範囲を超えているから」という政府解釈が確立し、固定化しましたが、これは現行日米安保条約の本来の締結趣旨に反する、誤った「解釈変更」であったというほかありません。

 その意味で、集団的自衛権行使を限定容認する、今回の解釈変更はまさに解釈の「適正化」と評価することができます。

 

 集団的自衛権違憲論の裏にある「奴隷の平和」容認論

 現在、行使反対派は、一時の内閣が憲法解釈を変更すること自体が立憲主義に反するという批判を繰り返していますが、憲法9条の解釈はその時々の政権の考えにより変遷してきたというのが歴史的な事実なので、そのような批判はまったく妥当性がありません。

 また、国連憲章や日米安保条約などの国際法の効力よりも、憲法の効力の方が国内法的には上回るので、憲法で行使を禁止されているとすることには何の問題もないという議論もあります。

 しかし、そのように実力行使における双務性を全面的に否定してしまうと、同盟関係の破綻リスクが著しく高まり、我が国の独立と平和が危険にさらされるのは上述の通りですし、憲法の文言そのものにおいても集団的自衛権の行使を禁止すると明確に記されているわけではないのですから、憲法解釈としては極めて不適切です。

 政府・与党は、今回の変更後の解釈も従来の政府解釈から完全に断絶しているわけではなく、1972年10月の自衛権に関する政府見解に示された法理に則ってなされたものであることを強調していますが、これは従来の政府解釈を全面否定すると話がややこしくなってしまう(例えば、不適切な憲法解釈を長年取り続けてきた理由の説明を求められたりする)ので、そのような事態を避けるための一種の便法と見てよいでしょう。

 日米同盟が我が国の安全保障にとって死活的な意義を有している以上、憲法解釈は、この同盟が安定的に維持され、円滑に運用されることに資する方向でなされるべきです。

 集団的自衛権の行使を容認せず、肝心な時に自衛隊が米軍を助けなければ、最悪の場合、日米同盟が破綻して、我が国は中国に併合されてしまいかねません。そうなったら、私達日本国民は、中国共産党の支配下に置かれ、思想・信条の自由や言論の自由など、日本国憲法で保障されている基本的人権を享受することができなくなってしまいます。

 長谷部氏によると、集団的自衛権の行使を容認する安保法案に対して「95%を超える憲法学者が違憲だと考えているのではないか」とのことですので、この言葉の通りであれば、残念ながらほとんどの憲法学者は、主観的にはともかく客観的には、憲法の目的であるところの、国民個々人の尊厳や基本的人権を守ろうとしているとは認め難く、自己の職業的使命を放棄していると言わざるをえません。

 ちなみに、6月13日に収録された長谷部氏守護霊の霊言(大川隆法著『左翼憲法学者の「平和」の論理診断』〔http://bit.ly/1MXaWVR〕として発刊済み)では、同氏守護霊は「『日米安保』っていったって、もういずれ、中国の覇権に敗れるのは時間の問題だから、『命乞いをして、生き延びる道を考えろ』」と語っています。

 長谷部氏は、その本心において日米同盟の意義を認めず、我が国が“平和”裏に中国の支配下に置かれることをもってよしとしていることが明らかになったわけですが、確かに日米同盟に意義がないとするなら、集団的自衛権の行使容認に積極的な意味は見出し難く、むしろ米国の遂行する戦争に巻き込まれやすくするだけの効果しか持たないと見て、これを「違憲」と判断するのも自然なことではあります。

 とはいえ、その判断の裏には、我が国が中国支配下の「奴隷の平和」に甘んじることを容認する考えが伴っていることは、世に広く知られるべきでありましょう。

 なお、集団的自衛権の行使容認によって、我が国の安全保障と直接関係のない米国主導の戦争に巻き込まれやすくなるとか、イスラム過激派等のテロに狙われやすくなるという批判がなされることがしばしばあります。

 確かに、集団的自衛権行使の限定容認を通じて日米同盟が強化され、自衛隊と米軍の一体性が高まれば、抑止力は確実に向上するのと裏合わせで、そのような戦争への関与を迫られるリスクやテロのリスクは可能性の上では高くなることがありえます。

 ここで「可能性の上では」と付け加えたのは、行使容認はそれらリスクの高まりを直ちにもたらすわけではなく、その時その時の政府の政策判断によって大きく左右されるというのが実際のところだからです。政策判断で下手な失敗をしなければ、それらを避けることは十分できるということです。

 ただ、これらのリスクに関して最悪を想定し、仮に我が国がそのような戦争に関与することになったり、テロに狙われるようになったとしても――そのような事態を決してよしとするわけではありませんが――、それでも我が国の独立が失われ、国民全体が他国への隷属状態に置かれるといった帰結を招くことにはなりません。

 しかし、集団的自衛権の行使を一切認めなかった結果として日米同盟が切れることになったら、繰り返しになりますが、国そのものが滅び、国民全体が自由や人権を失い、塗炭の苦しみの中に置かれることになります。してみれば、どちらを優先して回避すべきであるかは明らかでありましょう。

 一国の独立と平和を維持し、国民の自由と権利を守り抜くには、一定のコストとリスクを負担しなければならないというのが、本質的に無政府状態にある国際関係の現実です。

 これまでの日本は運良く、そのコストとリスクの大部分を米国に肩代わりしてもらうことで平和と繁栄を維持することができましたが、周辺で安保上の不安定さが着々と増大しつつある今後については、自ら引き受けるコストとリスクを何らか一定程度拡大することをしなければ、結果として巨大な亡国リスクにさらされるということが広く認識されなければならないのです。

 

 参考文献:鈴木尊紘「憲法第9条と集団的自衛権―国会答弁から集団的自衛権解釈の変遷を見る―」(国立国会図書館調査及び立法考査局 レファレンス平成23年11月号)http://ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/073002.pdf

 

※アイキャッチ画像は海上自衛隊ホームページより

 

 

 

 

 

 

 

 

12/15 安倍首相に憲法9条の改正はできるのか?

選挙結果は9条改正にマイナスのおそれも

 昨日14日に投開票が行われた第47回衆院選では、残念ながら幸福実現党は当選者を出すには至りませんでした。

 同党の候補者、全42名の中には、HS政経塾の在塾生6名、卒塾生6名が含まれており、支持者の皆様には大変お世話になりましたことを、心より御礼申し上げます。

 今回の選挙戦で成果が出なかったことをお詫びしますとともに、その反省を踏まえながら、引き続き、国政選挙での勝利に向けて、特に塾出身者の当選に向けて、努力を重ねてまいります。

 さて、当ブログは今年8月で更新が止まっており、読者の皆様には大変ご無沙汰してしまっております。

 率直なところを申し上げますと、来年春に開学するハッピー・サイエンス・ユニバーシティ(HSU)で非常勤講師をさせていただくことになっており、そのための準備の仕事が、通常の塾の仕事に加わることになって、なかなかブログ記事の作成まで手が回らなくなっているというのが実情です。

 そのようななか、ひとまず今回の衆院選の結果について感想を述べるとするならば、憲法9条改正という観点からすると、国会の「質」は落ちてしまったというべきでしょう。

 自民党が290議席を確保し、公明党と合わせて与党で衆院の3分の2の議席を占有したことは、政権の安定という意味で悪くはありません。

 しかし、その一方で自主憲法制定を前面に掲げた次世代の党が壊滅的な敗北を喫し、改憲に消極的ないし反対する勢力である、民主党が11、共産党が倍増以上となる13、それぞれ議席を増加させたことは、9条改正にとっては大きなマイナスの材料です。

 自民党の勝利といっても、安倍首相は今回の選挙を「アベノミクス解散」と位置づけており、憲法改正を前面に押し出すことはしませんでした。

 与党大勝を受けて、安倍氏は14日夜のラジオ番組で、憲法改正について「私の大きな目標であり、信念だ。国民的な理解を深めるためにリーダーシップを発揮したい」と述べたとされます(12/15付産経新聞)。

 しかし、実際にそれに向かって動き始めると「民意を分かつ争点を、アベノミクス柄の風呂敷で巧みに包んだ感がある。勝利すなわち白紙委任ではない」(12/15付朝日新聞「天声人語」)などといって、集団的自衛権行使容認の閣議決定時のように、左寄りのメディアから9条改正反対の大合唱が巻き起こり、民意もそちらに引っ張られて、結局改正できないということになりかねません。

 

もはや幸福実現党だけが頼み

 すでに、自民党の連立相手の公明党は「憲法9条については、戦争の放棄を定めた第1項、戦力の不保持を定めた第2項を堅持した上で、(中略)自衛隊の存在の明記や、『平和主義の理念』を体現した国際貢献の在り方について、『加憲』の論議の対象として慎重に検討」(『衆院選重点政策』)としており、実質的に9条を変えないことを謳っています。

 このような公明党に替えて、9条改正で協力を当てにしうる勢力は、次世代の党が壊滅した結果、衆院にはほとんど存在しません。

 維新の党は、今回の選挙のマニフェストで、道州制や首相公選制等に対応する憲法改正を訴えていましたが、9条改正は掲げていませんでした。

 自民党そのものも、巨大政党の性として必ずしも一枚岩ではなかったり、戦後の憲法体制を担ってきた惰性が残っていたりして、いざ9条改正となれば、これに反対する勢力が党内に現れないとも限りません。

 したがって、9条改正の視点からすれば、国会の質は落ちてしまったと言わざるを得ないのです。

 であればこそ、幸福実現党の使命もこの点に存するということができます。

 いまだ国会議員を擁してはいませんが、全国的な組織でもって政治運動を続けていく力は十分に持っています。9条改正を真正面から国民の皆様に訴え続けることができるのは、いまや幸福実現党だけです。

 

9条改正「この道しかない」

 今回の選挙戦での応援演説で、私も幾度となく訴えてまいりましたが、これからの時代、日米同盟だけに頼っていたのでは、我が国を守り切れるかどうかはもはや不透明です。

 米国議会では先月、「中国の核兵力が今後5年で急速に増大・近代化する結果、米国の抑止力が弱まり、日本の安全保障に影響を及ぼす可能性がある」と報告されました(11/21付日経新聞)。

 要するに、中国が米本土を直接、核で攻撃する能力を著しく高めているので、いずれ本気で中国に核で脅されるようになったら、米国は日本防衛のために米軍を出動させることを断念するかもしれない、ということです。

 米軍出動はそのときの米大統領の判断によりますが、日本を守るために、米本土を巻き込む中国との核戦争に突入するリスクまで冒してよいかどうか、という問いが大統領につきまとうことになるのです。

 そのリスクに耐えかねて、大統領が日本防衛を諦めたら、そのときが日本の独立と自由民主主義の最期となります。

 このような最悪のシナリオを現実味のあるものとして想定すれば、自主防衛力を高めていくことはまさに「この道しかない」のです。

 憲法9条が自衛隊の出動を過剰なまでに制限し、他国への反撃能力を保有することを妨げているのですから、抑止力強化のためには9条を改正すべきです。自衛隊を正直に「軍隊」と認めて、他国と同様に防衛軍を組織し、整備するしかありません。

 この事実を国民の皆様に根気強く訴えて、ご理解をいただけるよう活動を続けてまいりたいと思います。

 安倍政権で9条改正ができなければ、そのときは中国の属国となるか、幸福実現党を政権に参画させるか、二つに一つの選択となるというのが、日本の近未来についての私の見通しです。

 憲法9条改正の必要性を、一人でも多くの国民の皆様に、一日でも早く気づいていただきますことを心の底より願っております。

 

8/3 学校に宗教カウンセラーの導入を!~佐世保・高1同級生殺害事件を受けて~

宗教なしには命の大切さは十分に伝わらない

 7月27日、長崎県の佐世保市で高校1年の少女が同級生を殺害するという、痛ましい事件が発覚しました。

 県内の長崎市では11年前に中学1年の少年が4歳の男児を誘拐・殺害する事件が起き、翌年には佐世保市で小学6年の女児が同級生を切り付けて殺害する事件が起きています。

 以来、現在に至るまで、命の大切さを学ぶ教育に力が注がれていただけに、地元の教育関係者にとっても今回の事件の衝撃は如何ばかりかと推察されます。

 逮捕された少女は、警察の調べに対し「人体に興味があり、殺してバラバラにしてみたかった」などと供述しており、「命の教育」が結果として女子生徒の心に届いていなかったという残念な事実を確認させられました。

 少女を殺人に走らせた家庭内の出来事としては、少女の母親が昨年秋に亡くなったことや、父親が今年の春に再婚したことなどが指摘されています。

 しかし、少女は小学6年の頃にクラスメートの給食に漂白剤や洗剤を混入させるという事件を起こしていたことや、今回の事件後の調べでも「中学生のころから人を殺したいという欲求があった」という趣旨のことを述べていることから、最近の家庭環境の急激な変化に対する不満ばかりでなく、もともと精神面、情緒面で少女は重大な問題を抱えていたと考えるべきでしょう。

 このように精神面で問題を抱えた少女に対し、学校側はどのように対応していたかと言えば、母親の死をきっかけに不登校に陥り、今年春からはマンションで一人暮らしを始めた少女を中学時代の担任教諭らが週1回程度訪問し、相談に乗っていたとされています。

 残念ながら、結果論としては、そのような対応では十分でなかったと言わざるを得ません。

 ただ、では訪問回数を増やせばよかったのかといえば、それだけで事件を止められたかは疑問です。「人を殺したい欲求」を持っていた少女の内面を変えるには、それ相応の精神的な指導が必要だったであろうと思われるからです。

 本来であれば、ここで宗教者が何らかの役割を受け持たなければならなかったのです。

 命の尊さを教えるのであれば、単に「命は尊い」と言うだけでなく、「命は神仏から与えられたものであるから尊いのだ」ということを、信念をもって宣べ伝えなければなりません。

 神の愛や仏の慈悲を実感している人であればこそ、その愛や慈悲ゆえに神仏は「殺すなかれ」と命じておられることを生徒たちに伝えることができるのではないでしょうか。

 少女の場合、望むらくは小6時の事件を受けて、その後、個別に適切な宗教的指導を受け続けていれば、今回のように道を過たずに済んだ可能性が十分にあったといえそうです。

 このように考えると、生徒を宗教的に指導し得る者が、いわば「宗教カウンセラー」として、各学校に配置されるか、あるいは人員が足りないのであれば、求めに応じて派遣されるかする仕組みを作る必要があります。

 生徒が問題行動を起こし、将来の行く末が懸念される場合、個別に継続的に宗教的な指導を行える体制を築き上げれば、少年の凶悪犯罪を防止する上で一定の効果が見込めるでしょう。

 

刑務所での教誨活動が是とされるなら、学校での宗教カウンセリングも是とすべし

 ここで考えなければならないのが、憲法や教育基本法との兼ね合いです。

 憲法20条3項では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とありますし、教育基本法15条2項では「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」と定められています。

 宗教カウンセラーの仕事は、これらの条文でいうところの「宗教教育」ではないかと思われるかもしれませんが、これはあくまで「カウンセリング」の一種と位置付けられます。

 つまり、教科内容を一定のカリキュラムに基いて教授したり、試験をして成績を評価したりするものではないため、いわゆる「教育」には当たらないと考えられるのです。

 そうはいっても、宗教カウンセリングは「宗教的活動」に相当するのではないかといわれれば、それはその通りと認めざるを得ません。

 しかしながら、憲法で「いかなる宗教的活動もしてはならない」と定められているにも拘わらず、実際には国の機関でも宗教的活動を行っています。

 その最たる例は、刑務所における教誨活動です。

 もちろん刑務所勤務の公務員が直接宗教を教えているわけではなく、民間の宗教家がボランティアとして教えているのですが、その活動は刑務所内で受刑者らの矯正教育(すなわち国の行政活動)の一環として行われています。

 すでに、憲法の規定に拘わらず、受刑者の更生や社会復帰に必要と判断して、国及びその機関は既に宗教的活動を展開しているのですから、同様に、憲法の規定に拘わらず、生徒の善悪観念を涵養し、健全な人格を築いていくためには必要と判断して、学校で一定の宗教的活動を行うことは不可能ではないはずです。

 長らく教誨活動が継続されていることから、宗教には人を立ち直らせる力があることについては一定の理解があると思われますが、それであれば犯罪を犯した後だけでなく、犯罪を犯す前にも宗教の力を活用することを考えるべきです。

 宗教の力によって、人を殺してから更生がなされるのも大切ですが、むしろ人を殺す前に、その更生がなされた方がより望ましいのは言うまでもないことです。

 不幸な事件で命を失う人の数を減らすことができるのですから、宗教の力を活用することを躊躇すべきではありません。

 犯罪を減らすために使えるものは全て使うべきです。憲法の究極的な目的も個人の尊厳を守ることにあるのですから、宗教を用いて犯罪者や犯罪被害者を減らす取り組みも、その目的にしっかり適っているといえます。

 憲法や法律で公立学校で宗教教育が禁じられているのは、宗教そのものが有害だからでは当然なく、国民の信教の自由を侵さないための方便に過ぎないのです。

 したがって、学校に宗教カウンセラーを導入するに当たっては、信教の自由を確保するため、カウンセラーの教派や宗派は基本的に生徒や親の希望に沿うようにするなどの工夫を行えばよいでしょう。

 生徒や親が自分たちの信ずる宗派以外のカウンセラーは受け入れず、学校側がその宗派のカウンセラーを手配できないという場合には、家庭とその宗派の間で直接やりとりをしてもらって、生徒にその宗派の教師によるカウンセリングを継続的に受けるよう促すというやり方もあり得ます。

 無神論・無宗教の家庭に対しては、もちろん宗教カウンセラーを押しつけることはできませんが、それでも悲惨な事件を極力未然に防ぐための対策の一つとして積極的に推奨されてしかるべきです。

 なお、具体的な立法措置としては、憲法の改正までは行かなくとも、教育基本法は改正しておくべきでしょう。

 例えば、15条2項から「その他宗教的活動」という文言を削除して、「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育をしてはならない」と改正することで、公立学校で一定の宗教的活動が可能となり、宗教カウンセラーを導入することもできるようになります。

 

再発防止に向けて学校に新たなイノベーションを

 今回の事件を受けて、地元の教育現場ではこれ以上の追加対策は「こなせない」という声が上がる一方、マスコミは「命の大切さを実感させる努力」を繰り返せと主張しています。

 しかし、なぜ命が大切なのかについて宗教的な説明を伴わず、ただ「命は大切なのだ」と繰り返すだけでは、もはや十分な対策とはいえないでしょう。

 とりわけ精神面で問題を抱えた生徒の更生を図ることは難しいため、特にそのような生徒に絞って宗教的アプローチを取り入れて、今後同様の事件が発生しないよう工夫を凝らしていくべきです。

 今や、公立学校に宗教を持ち込んではならないという、これまでの「常識」を乗り越えて、若い命を守り育んでいくための発想の転換と新たなイノベーションが学校や教育行政に求められているといえます。

 少女は今年春に父親を金属バットで殴打する事件を引き起こして以降、2つの精神科ないしは心療内科に通院しており、事件直前の6月にはそのいずれかの医師から児童相談所に「このままでは少女は人を殺しかねない」という相談があったとの報道がなされています。

 この時の児童相談所の対応が適切だったかという論点は別途あるにしても、精神科治療も少女の更生や事件防止の決定打にはなり得なかった事実は踏まえておく必要があります。

 もちろん、宗教カウンセリングさえ行えば万事解決というほど、生易しい問題ではありませんが、今回の事件を受けて少しでも改善を進めなければ、今後も、加害少年は人生の重荷を背負い、被害者両親は最愛の息子・娘を失うという悲劇が繰り返される恐れが少なくなることはありません。

 被害者のご冥福をお祈りするとともに、再発防止の取り組みが一歩でも二歩でも前進することを切に願います。